初めて知りました。
新豊根ダムと揚水発電で対を成し、
かつては日本一の発電量を誇った佐久間ダム。
ダムマニアにとって知らぬ人はいない存在。
わずか3年で完成し、日本の土木技術史にも名を残す存在。
そこで毎年、まつりが開催されているのです!!
今年で第55回だそうで、歴史ある祭りのようです。
新豊根ダムの方から御紹介を頂き、
ダム好きの私が行かないわけがない。
佐久間の方に聞いたところ、一番の見所は湖上花火だそうで☆
それを狙って、家族揃っていくことにしました!!!
が。
しかーーーし!!!
そんなときに限って、急を要する仕事の連絡が入ってくるものです。
時計の針を眺めながら、ギリギリイケル!!!
そう判断し、職場へダッシュ!!!
急ぎつつも、礼節的にミスが許されない内容だったので、
慎重にチェックも欠かさず…
任務完了!!
再び自宅に戻って妻子&妹を拾うと、佐久間ダムへ急ぎます。
我が家からは1時間かからないです。
ただ、現地に駐車場が無いので、シャトルバスでの移動。
駐車場に車を止めてシャトルバスを待ちます。
初めて乗車する、遠鉄のバス。
「おおきい、バスだねぇ」
と、息子が嬉しそう(笑)
そしてっ!!
佐久間ダム堰堤到着!!
がっ!!!
あれっ!?
ドン!ドン!
って、音がするのだが。
おかしいぞ。
プログラムでは、あと五分後に花火が始まる予定なのだが!!
そして、ひときわ大きい音がしたと思ったら…
それ以降、何の音もしなくなった。
ま…まさかこれは…
祭り会場へ歩いていき、そこで耳に入ったアナウンス。
「天候の関係で、一部プログラムを繰り上げ…」
は…はうあっ!!!
湖上花火を見逃したーーーーーーー!!
なんという残念な。
聞く話によると、佐久間湖畔から斜めに花火を打ち上げて、
ちょうど湖の真上で炸裂する、めずらしい花火だそうな。
ま、来年の楽しみに…とっておくか。
とりあえず、昼ご飯を食べる暇が無かったので、
出店で焼き鳥やら焼きそばやらたこ焼きを購入☆
息子も旨そうに頬張っています。
そして、フィナーレは餅投げ!!
人だかりの中を、今シーズン3度目(?)の餅投げで慣れてきた息子。
このとき、ステージ上で佐久間(浜松市佐久間)の観光イメージキャラの
「さくまる」くんが登場!!
まだキャラが設定されてから間もないようで、
若干のぎこちなさを持ちつつも、そこが愛らしい。
記念撮影の募集をしていたので、手を上げて一緒に☆
息子の超笑顔を観た客席からは…
「すごーーい!! 似てるぅーーー!!!」
そんな声と笑い声で、大変盛り上がったのでした。
似ている…のか(笑)
昨年、仕事の関係で知り合った浜松市佐久間支所の方もいらっしゃって、
久しぶりの再会に嬉しい時間を過ごしました☆
餅投げについては、持ちを拾って袋へ入れるというポイントを
ようやく息子も理解したようで☆
私の身体に当たって落ちたお餅を拾っては袋へせわしなく運び入れる息子。
成長したなぁ。
これにて祭りは終了ですが、せっかくきたので餅拾って帰るってのも芸が無い。
佐久間ダム堰堤周辺を散策していくことにしました。
新豊根ダムに同じく、高い堰堤からの長めは圧巻です。
高さ155.5メートルで、この高さは日本第9位だそうです。
渓谷の山々も色づき始めています。
さて、ここがポイント。
佐久間ダムは天竜川に位置していますが、
その中心線が愛知県と静岡県との県境。
すなわち、豊根村と浜松市の境目になっています。
なので、佐久間ダム堰堤を渡るとそこは…
愛知県、豊根村。
豊根村までは徒歩数分ですが、
豊根村の自宅までは自動車で1時間弱。
それだけ険しい山があるのです。
そこをくりぬいたトンネル。
ちょっと薄気味悪いですが、この先、ずっと進めば豊根村の富山地区に続きます。
息子は、
「オバケ出る??」
と、ちょっとビビリながらも、大喜びで突っ走って行っちゃいました(笑)
写真で撮影すると、まさに異世界への入り口のようにも見えますが。
ここから先は、まだ私、行ったことがありません。
豊根村民なのに。
豊根村は…広い!!
また時間を見つけてドライブしてみたいと思っています。
さて、今夜は2ヶ月後に迫ってきた花祭りの切草会議です。
切草というのは、花祭りにおける装飾・祭具を作ること。
職人の方々が次々にリタイヤされ、分業も限界に近づいています。
なので、我々舞手も切草などの準備に積極的に関わるようになってきています。
その分担などを決めますが…
いかんせん、昨年リーダーシップを発揮して下さっていた先生が入院中。
皆で昨年の記憶をたどります。
今シーズンも、無事に催行できますように…
22時過ぎまで議論が続いたのでした。
佐久間ダム…。子供の頃、胸をときめかせたものでした。堰堤の高さ150㍍超、出力35万。完成当時は日本最大のダムでした。
「奥の方」(新城地方ではこういう言い方をしました)へ
向かう飯田線の貨物列車が、毎日のように建設重機を満載していました。
重機は米国製で、狭隘なトンネルを通過できるよう分解して積載されていました。
工事現場を見学したこともあります。銀色のヘルメットをかぶり、ガムをかみながら闊歩する長身の米国人技師の姿が印象的でした。
「佐久間ダム」「東海村の原子炉」「南極観測船宗谷」。この3つの巨大プロジェクトは、昭和30年代初期の子供たちに、夢と希望を与えてくれたのです。
ところで、先日の某紙の「蜂ぼい」の記事に父子で“出演“されてましたね(爆
駄文、失礼しました。
>山のしんぶんやさま
まさに日本が発展していく時代の風景がそこにあったのですね!!
私たちの世代から見ると、とてもうらやましく思います。
巨大プロジェクトが如何様にして形となっていくか…外国製の重機が運ばれていく様子を頭に思い浮かべると、ウキウキしてたまりませんね。
そして見学をすると異国の技術者がプロジェクトに関わり…う~~ん!面白そうっ!!
東海村の原子炉と南極観測船と同列に佐久間ダムがあったというのは驚きました。
まさか、そこまで佐久間ダムの事業が注目を集まったものだったとは!!
完成した今の時代ではありますが、それが身近にあるというだけでも誇らしく思えます。
まったく関わってはいなくとも!!
そして…
某紙の記事!!有り難う御座いました(笑)
紙面を開いた瞬間、二度見してしまいましたよ(>_
佐久間ダムについては、本当にいろいろな思い出があります。
4基の発電機のうち2基が東芝、2基が日立製で、小学校低学年だった私は「東芝」「日立」の漢字をここで覚えました。
ダムサイトには、ゲートを監視する大きなテレビカメラが設置されており、「すごいなー」と感動したものです。
当時、テレビはまだ一般家庭に普及しておらず、もちろん私の家にもありませんでした。そういう時代だったのです。
佐久間ダムは岩波の記録映画になり、学校で上映されたのを覚えています。
ただし、ダム建設で水没する集落のことなどはほとんど喧伝されなかったように思います。復校の国策推進の「光」のみが喧伝され、「陰」の部分は置き去りでした。
旧富山村を訪れるたび、そのことを強く感じます。
こうした体験を踏まえ、設楽ダムの「陰」の部分に焦点を当てていかねばと考えております。
堅い話になってしまい申し訳ありませんでした。
ご健闘を祈ります!
>山のしんぶんやさま
「東芝」「日立」の漢字を佐久間ダムの発電機をきっかけに憶えたことを憶えていらっしゃることに驚きました(笑)それだけインパクトがあったんですね。今でこそ家電製品が家庭にあふれていますので、メーカーの名前も当たり前のように目に入りますが、それらが少ない…もしくは無い時代にはメーカー名ですら夢のある文字だったでしょうか。そう思うと、改めて、当時としては技術の粋を集めて作られたのだなあ~と感じます。学校で佐久間ダムの記録映画ですか!!それはまた、子どもたちの輝く視線が頭に浮かびます。
今の時代、ダムの建設と言えば集落が水没することが建設による恩恵よりもクローズアップされるように思いますが、かつては真逆だったのですね。さすが、国策。何かを成す時は意図的に隠されるものがある…ってのは言い過ぎかもしれませんが。
影の部分も理解され、議論が成されて合意が形成されて…というのがやはり理想的ですね。
非常に難しいもので時間のかかるものであることは確かですが。