組長宅連続訪問

最近、「組長」って役職を連呼しているんですが、
あちら側の役職とは関係御座いません。

いわゆる、集落単位の自治会長のことを組長と呼ばれています。
新城以北ではメジャーな言葉です。

さて、しばらく意識の彼方にありましたが、
ひとつ、役職があることを思い出しました。

戦没者遺族会という組織があるんですが、
我が家はその役員でした。

また、役がわき出てきたですよ。
どんだけ、兼務しているんだか…。

今日が休日で良かった。

というわけで、各組の組長さん宅と戦没者遺族会会員さん宅を訪問して、
戦没者遺族会関係のお仕事です。

こんにちわーーー!

と、お宅訪問をすると…

「まあ、上がっていけや!」

という返答が帰ってくることがしばしばあるわけで…。

1時間程度で回りきる予定が、大幅に…(笑)

ただ、話し好きな方が多いこともあって、
知識をたくさんお裾分け頂きました。

その中には、我が家のルーツに関することまで!!

祖父からも、村の歴史的な話とか集落の成り立ちとかを聞いてはいたんですが、
全てを聞ききる前に亡くなってしまった。

Uターンしてから、祖父とはつかの間の同居。
聞き漏らしたことも、いっぱいあります。

今回は初めて聞く話がたくさんっ!!
祖父と年が近い方ってこともあり、70年近く前のことを伺いました。

むしろ、私を全く帰らせてくれない勢いです(笑)

上黒川地区は古く、老平村、兎鹿嶋村、大沢村で構成されていました。
それぞれが集合して集落を形成していたわけではなく、
村が家単位で飛び地のように分散していたんですよ。

大げさに言えば、どこどこの家は老平村所属で、その隣の家は大沢村所属で…
その隣の家が兎鹿嶋村所属みたいな。

村同士、家同士の境界線とするための赤線は、
村同士の紛争が起きる度に動くことがあったり、
諍いが起きると、○○村は通行禁止!なんてことになったりしたらしい。

村関係とは別に、血縁(一族)関係という結びつきも非常に強く、
一族の外へ嫁にやったり婿入りすると本家の財産(土地)を分けねばならぬので、
食糧確保の観点からも、一族の中で結婚を決めることも多かったんだとか。

なるほどなあ。

ある種、合理的な考え方。

ただ、それだと血が濃くなるので、だんだんその考え方は薄れていったそうな。

ま、それは豊根に限ったことでは無いと思いますが。

我が家周辺はかつて兎鹿嶋村に属していたわけですが、
我が家は大沢村との結びつきが非常に強かったみたい。

実際、祖父も大沢村出身で、我が家で生まれた祖父の代は
大沢村へ嫁いだ人が多い。

我が家の近所の血縁関係や戦後の地理関係などをたくさん伺い、
私の曾おじいさんの代の名前が出まくっていました。

戦没者遺族会の話をしに行ったから余計かも知れませんが、
戦争で亡くなった方の話も伺いました。

戦没者遺族会は、自分の家から戦没者が出た遺族が中心になって形成。

すなわち、我が家でも戦没者がお二人います。
世代的には、私の祖父の代になります。
元々は、その方々が家を継ぐはずだったんですが…

家を継ぐはずの人が全て戦死という…。

それで、祖父が継ぐために血縁関係から家を継いだわけです。

戦争というのは、残された人の人生にも大きく影響します。

いやはや、まさかこんな展開になるとは思いませんでしたが、
大変、勉強になった1日でした。

「組長宅連続訪問」への2件のフィードバック

  1. 水野日向守のHPにも興味がわくかも、
    中設楽の朝鬼はニアミスしていたようですね。

  2. >かしさま
    御紹介のページ、拝見しました。
    石高が書いてある資料は興味深いですねぇ。
    新城以北の合併の歩みが分かって面白いです。
    中設楽の花にいらっしゃったんですね!

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