妻実家から、妻母とふたりで小田原駅へ。
小田原厚木道路を初めて走りました。
この道路、建設の経緯からして、今の時代ではなかなか考えられないミラクル。
1962年(昭和37年)に建設大臣に就任した河野一郎は、このとき始まった東名高速道路の建設ルートが、河野の地元出身地である小田原市を通過しないことに不満をもち、大井松田IC経由では遠回りになるので、厚木ICから小田原へ直結する道路を造るよう命令を下した[5]。これを受けて、建設省の事務当局内では困惑したが上司である大臣の指示には逆らえず、当初の東名高速の建設計画では東京IC – 大井松田IC間が6車線であったことに着目して、この6車線区間を東京IC – 厚木IC間に短縮して厚木IC – 大井松田IC間を4車線に減らし[注釈 2]、その代わりとして厚木ICから小田原へ直通する暫定2車線の有料道路を新設するという強引ともとれるつじつま合わせの苦肉の策を打ち出して、1963年(昭和38年)に国道の路線指定がなされた[5]。このようにして、小田原厚木道路の建設は河野の政治力のもと実行へと移された。
■小田原厚木道路 – Wikipedia
道路と密接に関係する政治を地で行くような道路であります。
設計施工が古いこともあってか、高架部分は非常に少なく、一般道路と同じ平面を併走するような形。
それは一般道路を走っているかのような錯覚に陥りますが、流れる車両のスピードから、ここは自動車専用道路なのだと思い至ります。
中日本高速道路が管理する一般有料道路でありながら、全線が国道271号線。
小田原駅に到着。灼熱です。
そこで待ち受けるのは…
妻と子どもたち3名。
娘さんは絵本で見る「しんかんせん」に乗ってご満悦。
皆、新幹線が楽しすぎて、まったく寝なかったと。
妻、お疲れ様でした。
亡き祖父宅がある平塚へ向かう。
そして、50日祭祈願。
遺品にはアルバムがたくさんあり、ひとつひとつ、丁寧にページをめくって思い出に浸る妻。
祖父と一緒に旅行に、台湾へ行ったりと、おじいちゃん子だった妻。
おじいちゃんが愛用していたマラカスで遊ぶ娘さん。
マンションからの景色を楽しむ次男君。
それぞれ、思い思いに過ごしました。
平塚駅で夕食を取り、
そこでもまた、平塚駅前を見下ろして喜ぶ次男君。
景色を見るのが好きなんです。
長男も夏休みに突入したので、妻&子どもたちはそのまま滞在。
私のみが豊根に戻ります。
私が乗ってきたクルマは、そのまま東京神奈川へ置き去りに。
電車で帰ります。
新幹線のチケットを買って、一緒に出てきた領収書とカード利用控えを娘さんに渡したら喜んで握りしめる。そう、領収書も、カード利用控えも、切符と同じ磁気シート。また新幹線に乗れる!そう思ったのかな。
だがしかし、改札を通過したのは私だけ。
キョトンとする娘さん。
領収書を握りしめたまま、手を振ってバイバイしてくれました。
平塚から小田原駅へ移動し、そこから新幹線で浜松駅に到着。
浜松駅からは、朝妻が乗ってきたクルマに乗って豊根に。
ようやく帰宅したのは23時。
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